『くっすん大黒』
奇想天外にして日常。
まさにそうとしか言いようの無い物語性が詰まっている。
語り手のパンキッシュな部分と独特な感性が成せる技があり、描かれる物語の日常に異質さが垣間見える。
時代性というか、落語的な面白さもあり、だらだら進むようなお話にあって、顛末の潔さが心地良い余韻として残る。
なんだろう、文章的なリズムも独特だし、文体の軽妙さも相まり、本当にコミカルななにかを見せられているような。
一番印象的だったのが会話文における改行の無さ。
連綿と連なる会話劇に、ある種のテンポが生まれ、流れるように物語の日常に入り込める。
間合いとでも言いましょうか。
武術におけるそれのように、相対する読者と筆者の間合い。
この近くて遠いような、引き込まれる要素というのが非常に癖になる間合いで、だからこそ出てくる登場人物たちの様相にも親近感が持てる。
出てくる人物も、起きる事象も、本当にくだらないことの連続で、なにか展開があるのかと言えば別段そういうわけでも無い。
なのに読み終わった後に残るのはある種の爽快感とでもいいましょうか。
この物語の根幹にあるのが、”無意味”と”味気無さ”じゃないかと。
何故そう思うのか。
起きていること自体がまずもって無意味じゃないですか。
突き詰めて言えば、生きていること、生活していくこと、それ自体に実際意味なんてないわけですよ。
それを見出したなどという大層なことでも無く、世捨て人のようになった主人公楠木。
出てくる登場人物たちも到底意味を見出している人間など出てくるわけも無く、行われているのはその時々の気分にも似た行動があるのみ。
要はそういうことですよね。本来は。意味の積み重ねが人生になると思いきや、実際、無意味の積み重ねが意味を持ち、人生になる。
途中出てくるモール(商店街)的な場所であったり大黒もそう、本来的な意味を失い、むしろ、本来的な意味なんてあったのかと思わされるところにこそ存在がある。
味気無さというのも似たようなお話で、こういう人生って味気無いよなと思ってしまうこと自体が実は味気無い。
出てくる彼ら、彼女らの人生なんて味気無さすら度外視したような自由さを纏う。
縛られないからこそ出来る、ということを地でいくような清々しさがそこかしこに転がっているなと。
ラストでの楠木の豆屋になろうと思う、というのもそう。何になりたいか、どうしたいか、それ以上にただ豆屋になってみたいということそれ以上でも以下でもないというあの顛末が実に落語的で軽妙な幕引きであるなと。
結局あれやこれや、色々と枝葉を付けたがりますが、あるがまま、別にそれでいいじゃないですか。
そんなある種の認めを得られるような、お気楽道中を楽しみましょう。
では。
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